先輩とは、学校や会社において分かりやすく上下関係を示す際に使う言葉である。啓は、自分がその言葉を使うことも勿論多くあった。中高は部活動で毎日のように人の名前だかあだ名だかに先輩と付けて声を張って呼んでいたし、大学生になってからも、中高よりは頻度が減ったが使うことがあった。 ただ、それはとてもさっぱりとした、形式上のものであった。年上の人には先輩を付けるなんて当たり前のことだし、変に呼び捨てや何かで個性を出す必要などない。そんなものは個性ではなく、悪目立ちである。 ———そう、潤滑油である。相手との距離感を適度に保ち、呼び方なんて些細なことでおかしな摩擦を挟むことを起こさず、社会集団という歯車を正しく回すための潤滑油のひとつであった。
「……せんぱい? なんだか、難しい顔ですね」
なら、目の前のこの少女が放つ、いつも温度が変わらない『先輩』はなんなのか。 彼女の口から滑り落ちる言葉は、いつだって啓への尊敬や好意なんて、一切込められていなかった。他の女が放つ『啓先輩』や『啓くん』は全て多少なりとも感情がこもっているように聞こえたし、いつも啓を慕うような声だった。しかし、目の前の少女はどうだろう。ただただ、啓の名前自体が『先輩』と言わんばかりの空気感を纏っていた。 例えるなら、それは記号であった。彼女の中では、AとかBくらいの識別で人を分けられていて、その中で相手の立場をわかりやすいように区別していくために『先輩』とか、『教授』なんて付けるのだ。 「別に、気のせいだよ。お前が、人の顔色を判断しようだなんて……ずいぶんと偉くなったもんだな」 「……あはっ、そうですか? 私は、いつも先輩を見ていますよ。ちゃーんと、見てます」 すぐにわかる嘘は、啓にとってひどく腹の立つものだった。 彼女の瞳に、しっかりと啓が映っていたことなんて一度もない。いつだって啓の目を見ているふりをして、どこか虚空を見つめている。それは過去を見ようとしているのかもしれないし、未来を見据えて絶望しているのかもしれない。 少なくとも、啓にそこの判断はつかないし、少女が悪意も自覚もなく、嘘をついていることだけは明確であった。 「人と人がわかり合うのは、不可能ですよね。しっかりとお勉強して資格を取った臨床心理士さんでも、そんなことできないんですよ。できた気になっている方がおかしいでしょう?」 「…………お前の言葉にしては、珍しく理解できるな」 ———啓は、基本的に少女の言うことに一切共感できない。病気がどう、なんて急に語られたって精神疾患を甘えで存在しないものと思っている啓にはおかしな話であったし、少女は『差別発言は先輩らしいですね』と微笑むことが多かったが、啓からすれば自分が人だと思えないものを『区別』しているだけであって、差別なんてしていなかった。 「本当ですか? ふふ、めずらしい」 「あんま調子乗るなよクソ女」
「調子だなんて、そんな。あ、でも。———ね、啓くんって呼んじゃ、ダメなの?」 そのひとことは、ひどく軽快であった。いつもと何ひとつ顔色変わることなく、貼り付けているかのような、無表情ともはや変わらない薄ら笑いで少女はそう言い放ったのだ。いつも崩すことなどなかった敬語を、こんな場面であっさりと崩された。 啓は今この瞬間なら、鳩が豆鉄砲を食らったよう、だなんて現代人には想像のつきにくい慣用句がすんなりとわかる気がした。 「は……………?」 思考が一拍、完全に遅れて思わず声が出る。それはとても間抜けなもので、自分でも聞くに堪える声だった。しかしながら、今の啓にはそれを取り繕う余裕もないらしい。 別に、今まで同じような聞き方を後輩の女にされたことなどいくらでもあった。それは啓と距離を縮めたいと言わんばかりの下心から来るものばかりだったし、いつだって啓はそれにたいして「別に良いよ」だとか適当に微笑んで返していた。……ただ、この少女はどうだろうか。彼女にとっての先輩は、記号だと思っていた。そう思うことで、彼女との会話をすこしでも絶えないように自らで境界線を引いていたはずだった。 啓が完全に固まっていると、少女は手を後ろに組んで、ぐっと啓の顔を覗き込む。相変わらず、その瞳には啓の顔など映っていないように見えた。 「ふふっ、じょうだん、ですよ。私もね、こういうこと言えるようになったんです。上手でしょう? どうですか?」 「…………二度と言うなゴミカス……ほんっとうにつまんねえな、良い加減にしろ」
「失敗、ですか。うーん、やっぱり、先輩は先輩ですね」
少女はそう言って、顔を覗き込むほど近かった距離からすぐに一歩離れる。その動きはあっさりとしていて、ただの子供のいたずらのようだった。 「じゃあ、私はこの後用事があるので。先輩、またお話してくださいね」 先ほどより口角を上げて、少女は小さく手を振る。また一歩、また一歩と離れていって、元々細く小さな背中はすぐにどこかへ行ってしまった。 啓は二度と話すものか、と悪態をつきながら、その手を振り返すことはない。彼女との会話は、いつだって錆びついた歯車のようにうまく回らないのだった。