「先輩先輩うるさいんだよ、ちゃんと敬え」  相変わらず先輩は唐突だ。私のことを待ちもせず、自分の用件を伝えてくる。彼の硬そうな革靴が、段々と早くかつかつと鳴っており、私のことを置いてけぼりにするつもりなのだろかと思う。ついていくために早く歩くのも億劫で、私は私のペースを崩さず歩いて行った。  そうすると、先輩はついてきているのか心配になったのか歩みを止めた。こういった時、ここぞと言わんばかりに返事をするのが先輩と話すコツであることを、私は知っている。 「なんて呼べばいいんですか? あと、歩くの早いです。私がはぐれちゃうでしょう」 「自分で考えろ。愚図なのろまが少しでも直るといいな」  先輩は鼻で笑いながら、私の顔を見る。なんだかんだ私のことを待つ癖があるのだから、最初から遅くすれば楽なのではないかと思うものの、それは違うらしい。難儀なものだ。  私にとっては、先輩と呼ぶのは敬意を払っているつもりなのに、何かダメなのだろうか。……いや、少し嘘かもしれない。名前を呼ばなくていい楽な状況に甘えている節はある。 「地球がね、傾いちゃってるからはやく歩けないんです。先輩みたいに、傾きに合わせて動ける人なら上手く行ったのかも」 「屁理屈をごねるのだけは上手いな。たったの23.4度で左右されるやつなんて、死んだ方がマシだろ」  なんだかんだ、私の言葉を拾うことをやめない先輩は対話をしようとしてくれているように見えてしまう。  いつだって、私の話は意味がわからないと蹴飛ばされることばかりだった。もちろん、彼だって理解しているわけではない。そもそも、彼は私のことを理解してはいけないのだ。先輩が私のことを普通の人間として扱う、配慮の無さが最も大切なのだ。地球が傾いていることよりも、地球が太陽の周りを回ることよりも、私の中でそれは重んじられる。  そんなことを考えている間に、彼はまた歩き出そうとしていたので、私はわざと歩幅を小さくして一歩、また一歩と進んでみせた。  先輩はそれをすぐに察したようで、わかりやすく眉をひそめる。 「……おい。わざとやってんだろ、お前のごっこ遊びに付き合う暇はないぞ。地面だって、こんなところじゃ傾きもしてない」 「ふふ。先輩、気付くのはやーい。私にとっては、いつも傾いてますよ。重力なんて、いつ変わっちゃってもおかしくないもの」 「黙れガイジ」  こんな瞬発的に差別用語が出てくるのも立派だ。  私は、いつもこういう言葉を自分の引き出しから必死に探して見つけている気がする。普段使わないものは忘れるところにしまってしまう。当たり前のことだろう。……つまり、先輩からするとこういった類の言葉は、すぐに出せる引き出しにしまっているということだ。 「えっと、お話ズレちゃいましたね。先輩って呼ぶな、ということですか?」 「お前みたいな知的でも話が通じることがあるんだな、感動したよ」 「今日は一段と差別的ですね。うーん……啓、くん?」  ———どうやら、選択を間違えたかもしれない。先輩はぴたりと固まって、いつもの苛立ちや嫌悪とは全く別の顔を向けてきた。私はなんだかそれが愉快で、間違えたことに良かったかもしれないなんて思う。彼はその場で歩みを止めたまま、こつ、こつ、と片足首を上下に動かして地面に当てる。右足が先輩にとっての利き足なのかな、と思った。  呼吸をするように暴言を吐いていた饒舌な口元は固く結ばれてしまって、気まずそうに斜め右を見ている。そこには何もないというのに。 「…………やっぱりそれやめろ……」 「ええ……まあ、そうしますけど。何か不快にさせたならすみません」  掠れるような声で言われてしまえば、流石の私も何か嫌な呼び方だったことがわかる。足の動きはいつの間にか止まっていて、思考整理もそろそろ終わったのかもしれない。  少し気になった私は、片手を頬に当てて考えるような形をとる。何事も形から入るのが、普通になる秘訣な気がしている。気がする、だけでもある。 「先輩、下の名前好きじゃないんですか?」 「…………家にいるゴミと、お前の呼ぶ時の声が似てたから」 「ゴミと? 先輩のお家はずいぶん愉快なんですね」 「うるさい。中学生の女と声が似てるなんて、お前の声はずいぶんと低脳が露呈してるんだろうな」  中学生の女の子が、先輩の言うゴミらしい。妹さんがいると前に言っていた記憶があるから、その子かもしれない。私は薬で保っている自分のおかしな頭が信用ならないことを知っているから、勘違いかもしれない。  少なくとも仲が良くないことだけは伝わってきた。家族と仲がいいことが一度もなかった私からすると、気にする要素すらなく、きっと明日には忘れてしまっているだろう。 「先輩。明日もね、先輩って呼ぶから振り向いてくださいね。私、きっと普通に呼べますよ」  これは、私にとっての最大の敬意である。彼を先輩と呼んでいる間は、私は普通の後輩でいられる気がする。彼はいつだって、私を普通扱いして普通の人間という色眼鏡で見てもらわなければいけない。視覚だけでなく、聴覚までも普通と認識してもらわねばいけないのだ。 「……何が言いたいのかわかんねえよ。そもそも敬意払えって言ってんのに下の名前とか頭おかしいだろ」 「あ、確かに。そうですね。あははっ、気をつけます! せんぱいのこと、羨ましいって思ってますよ。ほんとです」 「媚び売るのも下手な女なんて価値がない、いい加減にしとけ」  ———本当のことなのに!  私は、いつだって地球を正しく歩ける先輩が羨ましい。普通たらしめることができる、強者である彼はいつだって私が一生かけてもなることのできない姿なのだった。