「先輩といると、先輩の方がおかしい気がして嬉しいです」  少女は、自販機で買ったであろうココア缶を抱えて呟く。指先はかじかんでいて、缶の温かさでどうにか感覚を取り戻そうとするように握っていた。  夜の東京はいつも通り明るい。星の明るさを覆い隠すように、蛍光灯のやかましい輝きが絶えない。コートもマフラーもしない、ろくに防寒具をつけない姿と光が細い体をより際立たせていた。今にも風に飛ばされてしまいそうなほど弱々しい。実際には飛ばされることなんてなく、細い髪がさらさらと流れていくだけだが。 「は……? お前の方がキチガイだろ、優れてるところ何一つないクズがしゃしゃんな」  自分のことを馬鹿にされていると思った瞬間、啓は少女が口を挟む暇も与えないように暴言を吐く。相変わらずの口の悪さであり、倫理の無さが露呈している。しかし、普通の人間なら萎縮するようなことを目の前で言われた少女は、無表情から子供のような微笑みへ変化していった。 「あはっ、先輩ひどいなあ。たしかにね、先輩の方がきっとまともです。私も先輩みたいな男で東京に生まれてて頭がおかしくなかったらいいのに!」  ———でもね、そんな先輩が、私から目を離さないのは嬉しいんですよ。  童謡を口ずさむような明るい声だった。大きな瞳は光を取り込んできらきらと輝いていて、艶やかな黒髪は天使の輪を作っている。少女は、どんなことを言う時でも輝いていた。  いつもの淡々とした声色とは全く違うもので、感情を出力を調節するネジがあるとしたら無理矢理反対に回したのだろうと思った。  啓は、妹の大事にしていたオルゴールを落とした時をなんとなく思い出した。床で欠けて、壊れかけているオルゴールは、今まで聴いた中で最も綺麗な音を立てていたのだ。調節が奇跡的な狂い方をしたのだろう。啓は今にも泣き出しそうな妹を横目に、壊して良かったと心から思った。

———そのオルゴールの末路を、絵にも描けそうなほど啓は覚えている。あまりにも不気味なほどに美しい旋律を奏でては、数分後沈黙し、二度と音を鳴らすことはなかった。  そして、この少女もそれと同じである。啓は初めて、この少女が本当に病気なのかもしれないと思った。何回だって病気だとか薬だとか言われていたのに、一番きらめいていて眩しい瞬間、そう思ったのだ。 「自惚れてる女は気持ち悪い、黙っとけ」 「せんぱい、いつもと顔違いますね。……もっとこっち見てください、ね、私のことをおかしくないって先輩だけは思ってて欲しいから」  そう言って小首をかしげる少女の瞳には、都会の光だけが反射している。啓のことは何も見ていないのに、その少女が示す顔とはなんなのか! そんな少女が語る、思っていて欲しいなんて言葉は、祈りのひとつであった。見えない神に対する祈りに近しいものである。しかし、それは啓を引きずり落とそうとする呪詛のようでもあった。  啓はそんな呪詛も祈りも投げ捨てるように、少女から目を伏せた。この場から離れればいいものの、少女のまぶしさから逃れることはできないらしい。

顔が好き、とは難儀なものであることがよくわかる。