———お薬の飲み方で最も大切なのは、決められた量と時間を守ることです。  昔、どこかで薬剤師さんが言っていた。そりゃあ、わざわざ決まっていることなのだからごもっともなことである。何か反論しようとも思わないし、反論の余地もない。その通りに、正しく従って飲んでいこうと思うだけのことだ。  私の定期薬は、ありがたいことに自立支援医療制度のおかげでほとんど無料でいただくことができている。だから、私はそれに感謝をして、しっかりと決められた量と時間を守るべきだと思っている。どんなに思考が渦巻いて眠れない日でも、想定されている眠る時間には就寝前の薬を飲むし、何かを口にするのに罪悪感を感じて水すら苦しい時でも決められた時間になれば水無しで飲み込む。多分、そうしていくことがまともに近付く第一歩だろう。千里の道も一歩からと言うし。  そうして、私はそんなことを考えながら目の前の小さなおにぎりと向き合う。  最後に薬を飲んだのは、たしか、八時。もうそこから五時間程度経っている。お昼にも良い時間であり、もうそろ薬の効果が切れてくる時間でもある。食後に飲むことが定められたこの薬に従うためには、私はこのおにぎりをどうにか一口でも胃に放り込まなければいけない。分かってはいるものの、この八十円の物体が持つ白と黒の二色が、私のおかしな脳みそでは食べ物と認識してくれない。色しか認識することができなくって、頭には自然とゲルニカが思い浮かぶ。連想ゲームのように授業で見た戦時中の悲惨な光景が流れてきて、元々ない食欲はマイナスの方向で動き出す。  薬が切れているからこんな思考なのか、元からおかしくて矯正不可なのかは、私ひとりでは判断できなかった。———少なくとも、自分でわかっていることは二つ。ひとつ、今の私ではこのおにぎりを食べられないこと。ふたつ、私のろくでもない体では食事をせずこの薬を飲むと、確実に胃が荒れてから副作用が襲ってきて一日中動けなくなるということ。  一度向き合うのをやめて、飲み物でも買いに行こう。席を立ち、自販機に向かう。そうすると、白と黒の髪色がぱっと目に入った。 「先輩、こんにちは」 「んー? ……ああ、なんだ、お前か」 「……びっくりしました、そんな優しい顔して振り向けるんですね……」  おそらく、私と気付かずサークルや同学年の女の子だと勘違いしたのだろう。一瞬、知らない普通の男の人の顔をした先輩がいて、思わずうろたえてしまった。  そんな私に苛立つように、彼はボタンを少し強く押す。ガコン、とペットボトルが落ちてくる音が聞こえた。 「うるせえよ……腹減ってんだからどうでもいいことで話しかけるな。面倒」  いいなあ。そんな短い感想が自然と出てくる。当たり前にお腹が空いている先輩は、生物としてとても優れていると思った。最後にお腹が空いたから、なんて単純な理由で私が食事を出来たのはいつだっただろうか。お腹が空いても食べることが許されなかった時間が長すぎたせいか、そんな感覚はとうの昔に無くなってしまっていた。  ……ああ、そうだ。わからないのなら、先輩に普通の在り方を教えてもらったっていいじゃないか。たまには、先輩らしいことをしてもらったっていい。きっと、そう。 「ねえ先輩、私と一緒に食べてください。ご飯の食べる時間とか、わからないので。先輩なら分かるでしょう。私に教えてください」 「頭沸いてんだろ……腹減ったら口に運んで飲み込むだけのことに教えるもクソもあるか。ガキじゃねえんだぞ。馬鹿女とはいえ、馬鹿も大概にしろよ」 「……うーん、えっと、嫌でしたか? 先輩とご飯食べれたら、私にとって都合が良かったんです。それだけのことを先輩に教えてもらいたかったんですよ、馬鹿なので」  私の言葉を聞くなり、先輩は手にしていたペットボトルを強く握っては空いている方の手で私の裾を強く引っ張る。おそらく、ついてこいということだろう。断られたわけではないらしい。

▽ 「お前、わざわざ人に一緒に食おうなんて声かけてそれしか食わねえの?」  席について、私が先程のものを取り出すなり、呆れ半分と言った声でため息をつかれる。先輩にとってのそれ、がどうしても食べられなかった私は、まあ、私らしいなと他人事のような感想を抱く。 「たまには固形物を食べようとした結果、ですね」 「老害みたいな食事だな。……もう鬱陶しいから早く食え。そんなん二分とかで食えるだろ、痩せようとでも思ってんのか? 棒みたいな、女らしさもクソもない体してるくせに」  私が向き合い続けてる何十分間は、先輩にとっては二分で終わるものらしい。なんだか先輩の、おそらく、いわゆる、普通の人が持っている食の感覚を聞いていると、自分の異常さを突きつけられていく。  先輩が黙々と食べ進めている姿を見ると、普通の食とはこんなものかと感心する。ひとまず、それの真似事をしてみることとした。包装紙を開けて、ひとまず無理やり一口だけ咀嚼をする。湿気た海苔はなんだか張り付くような感覚があって、粉薬にむせた幼い頃を思い出す。  先輩はそんな私なんか気にも留めないで、食堂で買ったであろう適当なラーメンを無表情で食べている。味、するのかな。 「……おにぎりって、こんなに味しませんでしたっけ」 「いつも栄養食品とかゼリーとかばっか飲んでる馬鹿舌だからだろ」  相変わらず、食事スピードだけでなく悪口を言うスピードも爽快だ。そんな彼とは相対して、ゆっくり噛んでほぼ液体化させて飲み込んでの繰り返しを無理やりする私は、食べ進めるのがひどく遅かった。

必死に食べていると、自然と先輩から目線が外れていく。私の手元にあるおにぎりが残り少なくなって、ふと前を向くと、とっくのとうに先輩は食べ終わっていた。 「あ、すみません、遅くて」 「別に、誘われたんだし……座っといてやるよ。あー、でも早く食え。鬱陶しいから」  私の食事を待ってくれるらしい。少し驚いて先輩の顔を見ると、先ほどより強い口調でおい、と言われたのでまた食べることにした。

▽  なんだかんだ、食べ終わることができたらしい。らしい、というのは、後半食があまりにも分からなくて他人事のまま動いているだけとなった証拠である。ただ、普通の人がなんなのかを、先輩に先輩という概念らしく教えてもらった気がする。 「先輩、ありがとうございます。またご飯食べてくださいね、いっしょに」  久々のまともな食事を完了できた私は、自然と口角が上がって先輩に一言伝える。  彼は横目で私を見ては席を立ち、黙って食器を戻しに行ってしまった。……まあ、付き合ってもらえたことは確かだ。すぐにどこかへ行きたかったのなら、私の顔なんか見ていないで、食べ終わったらすぐ消えて良かった気もする。  なんだか、普通の人になれた気がした。———けれど、それは気がしただけであって、きっかり食後と定められた精神薬を飲み込んだ瞬間、化学物質で作り出された普通もどきに戻るのであった。