華鳴啓という男は、いつだって集団の頂点にいる。ホモソーシャルの恩恵を受け続けているのが彼だ。そんな彼は、いつも通りインカレサークルの集まりに顔を出していた。たまたまなのか、その学部を選ぶものの性質なのか、法学部生はサークル内に少ない印象を啓は持っていた。それに寂しさを感じる学生もいるらしいが、啓にとってはそれが好都合だった。自分より圧倒的に頭の悪い女は、「弁護士になるの?」なんて言いながら恍惚とした顔で啓を見てくるし、学部は違うものの、中高同じだった友人とは周りを気にせず適度に軽口を叩ける。 「啓先輩! お疲れ様です」 「……おー、ありがと」  そう、そうだ。これが普通の女だろう。態度も出来も悪い妹は論外だし、いつものアイツなんてどうかしている。実際、病気のふりをして変なことを言うだけのおかしな女だし。彼に向けられる女性からの目線は、いつだって何も考えず憧れているようなものじゃなきゃいけなかった。自他共に認める己の完成度に納得しながら、課題のために借りてきた本を開く。  念のため時計を横目に見ると、まだまだサークルが本格活動するまで時間があった。おおよそ書く内容を考えるくらいは出来るだろう。はじめに、と書かれた作者の書き出しはぺらぺらと飛ばして、すぐに本文へ目線を向ける。 「———えー! むずかしそー! せんぱい、やっぱりすごーい」  ……そうだ、ここはインカレサークルである。ボーダーフリー程度の偏差値しかない女も時々いるのだ。こんなの、学生なんだから目を通すくらいしろ。そもそも課題に取り組もうとしている人間に馬鹿を露呈した声で話しかけるな。啓は相変わらずの差別意識を内側にふつふつと抱える。しかし、決して顔にも口にもそれを出すことはない。 「……はは、まあ先にやっといた方が楽だからな」  大体は、こう返して軽く微笑めば満足する。経験上、こういう類の対処は上手い。  案の定、名前も覚えていない女は「かっこいいですう」とぼやいては身を引いた。これこそ、自分が女に向けられるべき態度であると啓は再確認する。適度な態度、適度な賛美、これこそが啓の吸うべき酸素なのである。  満足したところで、目線を本に戻す。法のことを読み込むほど、やはり秩序を保つものでもなんでもなく、システムでしかないと啓は再確認した。静かな優越感に包まれながら読む活字は心地良い。これこそ、サークルに顔を出し続ける理由だろう。  少し時間が進めば、人もおおよそ集まってサークルの本格的な活動が始まる。これもまあ、正解の関わり方をして吸うべき酸素を吸って終わるだけの日常だ。

▽  帰り道、啓は駅のホームでうずくまる人影を見つける。人助けなんてする柄じゃない。大体、啓は公共の場で体調を崩す人のことを心底軽蔑している。迷惑でしかないからだ。  しかし、その人影には自然と足が向いていた。よく話す、少女と何かに似ている気がしたのだ。 「……おい」 「———えっ、あ、せ……せんぱ、い」  咳混じりの返事。少し苦しそうにも聞こえる。  サークルの有象無象でしかない女の顔は、当然覚えていない。なのに、なぜこの少女には人影だけで気付いてしまうのか。啓は、自分が不思議で仕方がなかった。 「お前、こんなところで丸まってんじゃねえよ……迷惑行為は子供までにしとけ、ガキが」  いつもなら、饒舌な思想語りがダラダラと返ってくる。今回もどうせそうだ。……なぜか、何も返事が返ってこない。なんなら、先ほどよりさらに小さく縮こまっている。  啓には理解ができなかった。———ひとつ目に、自分がわざわざ話しかけていること。ふたつ目に、こんな駅で小さく端っこに収まっていること。みっつ目に、少女の、呼吸の間隔があまりにも可笑しいこと。 「おい。聞いてんのか。迷惑だって言ってんだよ、おい」  返事はない。それどころか、彼女の肩は上下して息を上手く吸うことすらままならない状態になっている。ひ、ひっ、という、空気を無理やり肺の奥にねじ込もうとしては出てきてしまっているような声。湿った声は電車のかんかんとなる踏切音に轢かれて消える。  啓の脳内にある、適切な対応にこんな状況の正解は載っていない。知らない。分からない。  泣いているなら適当にハンカチでも貸して、自分に酔いながら去ればいい。告白されれば悲しげな顔をしながら、それらしい理由を述べればいい。だが、目の前のこれはもっと生理的で、動物的な故障だった。 「情けねえ声出すなよ……お前の病気アピールも飽き飽きだ」 「あ、ぅ、せんぱ……すみません、ごめんなさい」  少女は呼吸が整わないまま、必死に謝罪の言葉を紡ぐ。啓は何に謝っているのかも分からないし、どうせ嘘であろう病気という話が現実味を帯びてあるのも不気味に感じた。  ———ただ、この対応が不正解であるのは分かった。適切なものに、自分がなれていない。それがただひたすらに許せなかった。 「……いいから。喋らなくて、いい。とりあえず吐け、息吸わなくていいから」  どこかで、医学書か何かで見たような言葉をコピーして喉元にペーストする。適切な対応が取れるか、ちょっとした検証のような気持ちですらあった。  息を吐くことに集中した彼女は、だんだん荒く上下していた肩が収まるのが目に見える。呼吸が落ち着いていくにつれ、安堵と共に形を持たない支配欲が、啓の中に渦巻く。 「先輩、すみません、忘れてください……忘れてください。病気、びょうきなのかな。わからないので。違うって言ってください。先輩だけは何見ても何知っても否定してください……」  早口なのに、か細い声が風に乗って聞こえてくる。自分の発する言葉で、いつも何も変わらない返事をしてきた少女がこんなに落ち着いていくこと、今また荒ぶっていることが心地よかった。どこか、達成感があった。 「……はは、聞き分けいいじゃねえか。あー、面白」  啓は、ようやく顔を上げた少女の顔をじっと眺める。少女の整った顔が、前から気に入っていた。涙と汗で崩れた顔は、人らしくない整い方をしていた少女に新たな魅力があるように見える。サークルで彼を崇める女たちの、整えられた化粧顔よりも、この無様に崩れた顔の方がよほど愉快だった。  啓はこの瞬間に気付くのだ。集団のトップでいたいのではない。常に、相手よりも上に立っていたいのだと、強く理解するのだった。