冬に無計画のまま、水に濡れるのは良くないらしい。一昨日の夜と同じ、体温計に写し出された三十九度を眺めながらそう思った。海に入った時のように寒いのに、体は熱を発し続けているなんて不思議なものだ。 ———咳をしても一人、というのは、とてつもない孤独感だとか悲哀が詰まっている言葉らしい。解釈としてはきっとそれが正しいのだろうけど、よく分からなかった。私にとっては、咳をしても一人なことがたまらなく嬉しいのだ。実家だと、風邪を引こうが流行り病にかかろうが、迷惑だとか咳がうるさいなどこっぴどく叱られたから。どんなにうめいて苦しんでも怒られることがない。 ああ、なんで素晴らしい事か。 ぬるくなった冷えピタを触りながら、自分のおでこにこんなものが貼られる日が来たことに感動する。自分で貼ったから歪な形でくっつきはしたものの、冷えピタというものを購入した時は少しだけ嬉しかった。物語で登場人物が風邪や病気になるたび、こんな献身的にしてもらえるものなのかと心から驚いたものだ。 体温計を眺めるのにも飽きて、再び目を閉じる。ふと、二日間何も食べていないのに気付く。しかし、家に大した食べ物はないので口にしようがしまいが同じだろう。どうせこんな熱の状態じゃ動けやしない。ただ、このまま死んでしまったら、大家さんに迷惑がかかるかもしれない。そうなってしまったら、申し訳ないなあ。まあ、自殺の事故物件よりはマシだろう。許してもらおう。
カチ、カチ。時計の規則正しい音が聞こえて、私はその音に合わせてうつらうつらと、また眠気が来る。時計の音は、いつだって静かな私一人の部屋で鳴っている。 ———ブー、ブー。時計の音を掻き消すのは、スマートフォンの振動。机の上に置いていたのもあり、音は低く響いていた。私の電話番号を知っている人なんて、大学と、宅配のために登録したサイト、両親……は、知らないはず。ええと、それと———スマートフォンに手を伸ばして、誰からか確認する。そうだ。先輩に、聞かれて教えたんだった。 「やっと出た、いい加減にしろよ。メールなら見るんじゃねえの? 連絡全部スルーしてんじゃねえよカス」 もしもし、なんて挨拶もなく矢継ぎ早に感情をぶつけられる。 普段なら先輩らしいと思うだけの言葉なのに、風邪のせいなのかいつもの病気のせいなのか頭の回らない私は、実家で高熱を出した時をひたすらに思い出す。 「……あ、えっと、すみません。ごめんなさい。騒がしかったですよね。その、黙ります。気をつけます。すみません。もうしません。失礼しました」 「……はあ!? お前頭おかしいだろ。何? 俺の話聞いてた? 連絡ちゃんと返せって言ってるだけだろ。俺何かそこまでおかしなこと言ったか? 勝手に黙んなよ馬鹿」 どうしよう。どうしよう、どうしよう! このままじゃ機嫌を損ねてしまう。いや、先輩は別に母でも父でもなんでもない! 分かっているのに、三十九度もあると人の脳はろくに動かないらしい。四十二度を超えたら死ぬんだっけ。私はたった三度の猶予で生かされているらしい。 頭の中では電話相手が先輩で大したことないくらい分かっているのに、私の記憶が、謝れとけたたましく警報を出してくる。今の私は、過去と現在の境界線がめちゃくちゃであった。 「……すみませ、すみません。すぐ返します。次からは、ちゃんと……」 ああ、どうしてこんな時に咳が止まらないのか。必死に言葉を紡ごうとも、喉が焼けるように張り付いてはそれを元の状態に取り戻そうとされている。 咳をしても一人、なんてくだらない! 誰にも届かない咳だから虚しいという話じゃないのか。現代社会では、一人で暮らしていようとも一人で咳すらできないのだろうか。 「……お前、風邪?」 「えっ、あ、はい……」 「はあ!? なら言えよ、病人に謝られたってこっちが気分悪い。……意味わかんねえよ、気味悪い」 大きなため息の音が聞こえてくる。先輩は、私の精神病はないものとする割に、風邪はあっさり受け入れてくれるようだった。回らない頭の中、彼の病気に対する基準が少しずつ鮮明になっていく。
「すみません、食べれてないから頭回ってないんだと、思います。連絡返すよう気をつけます。では」 私が電話を切ろうとする素振りを見せると、食い気味に「おい」と言われる。 「何日食ってない?」 「丸二日……?くらい」 電話の向こうで、先輩が思わず漏らしてしまったような声が聞こえる。そういえば、先輩は普通にご飯が食べられる人だった。きっと、風邪の時でも看病されてまともな食を摂っていたのだろう。 「……住所送れ。適当なもの頼んでやる。さっさと送らないとお前のこと殺すからな」 そんな子供騙しのような、いつも言われている脅しでも、今の私には世界の終わりのように聞こえた。別に、殺されるのは歓迎だったはずなのに。生物的本能だろうか? 今は本当に死ねる可能性があるから、おかしな脳が余計おかしくなってるのかもしれない。 いつも通りの思考がぐるぐると巡るくせに、手は寒気か恐れか何かで震えている。そんな手で、先輩へ位置情報を送信する。彼はそれを確認すると、何も言わずに電話を切った。
▽ 足音と、インターホンの軽い音で目が覚める。知らぬ間に一時間ほど眠っていたのか、体は動かせるほどに楽になっていた。気力に任せ、無理やり立ち上がる。そのままドアを開けると、そこそこの荷物を抱えた配達員が立っている。 「お届け物です。ご確認ください」なんて形式的な言葉と荷物を渡される。玄関に座り込んで、袋の中身を見ると、物語の中でだけで知っていた食べ物ばかりだ。 レトルトのお粥、スポーツドリンク、フルーツゼリー、おまけにと言わんばかりに、少し高そうなアイス。風邪の子供を甘やかす母親のようなラインナップだった。そして、そんな甘やかしを当然されたことのない私は、あまりに過激な贅沢に目がくらくらとする。これは風邪のせいじゃなくて、私のおかしな頭のせいというのが明らかだった。 自分で買った冷えピタひとつに感動していた私には、これらは重すぎる。受け取り方がわからない。食べやすいもの、と世間で言われているものを目の前に、私は食べ方すらわからないで固まってしまう。 ひとまず、スポーツドリンクをなんとか口に含んでみることにする。……液体を飲み込むことくらいなら、なんとかできた。 ———ただ、スポーツドリンクの甘さひとつで胸焼けしてしまいそうだった。多分、これらの荷物は彼がこれまでの人生に人から受けてきた当然の厚意だ。 それを思い知らされて、私は初めて、咳をしても一人なことがひどく寂しいのだろうと想像するのだった。