先輩は海に行きたいらしい。海? なんて思ったけれど、東京生まれ東京育ちで生まれた時から良い人生設計が出来ている先輩には、海は日常的なものではないとのことだった。 「先輩なら女の子と海くらい行ってそうなのに。そんな物珍しいものでしょうか?」 「夏の海とか気持ち悪いだろ……馬鹿が陽に照らされてアホみたいにはしゃいでる。そんな中に混じるなんて勘弁だ」 「ふうん。まあ、そういう理由ならこの季節の方が楽しいのかもしれませんね。行ってらっしゃい」  私は暖かいスープの器を触りながら答える。私の脳みそは海から入水自殺を連想してしまうので、何となく太宰を思い出して、ひらりと一さじすくって飲むことにした。  なんてことない私の返しに、彼は不服そうな目でこちらを見つめる。……また、おかしなことを言ったのだろうか? 先輩の基準はいつもよく分からない。私が、世界からおかしいと扱われているのは分かっている。そうじゃなきゃ合理的配慮なんて受けられないから。けれど、先輩の持つおかしさの基準と私とじゃずれすぎていて、いつだって理解が出来ない。 「話の流れも読めねえのか? この馬鹿」 「先輩が、冬で人が少ないから海に行きたい。それだけ、ですよね?」 「……ああ。よくそんな読解力でうちの大学に入れたよな。不正入試か?クソ。……あのなあ、お前も来いって事だよ」  ———わお。先輩は、一人で海に行く気がなかったらしい。別に、先輩が誘ったら喜んで行く女の子やご学友ばかりだろうに、なんで私を? 「私泳げませんよ。私と行ったって、いつ入水自殺されるか分からないのにいいんですか?」 「冬の海で泳ぐ奴がいるかよ……わざとやってんだろ。その病気アピールも結構だ。弱者の盾で断ろうとすんな」  目の前の人は、頭をぐしゃぐしゃと衝動を外に逃すようにしながら話す。せっかく綺麗にセットされている髪の毛が崩れていくのはなんだか勿体無くて、私はそれをじっと見つめる。整えられたものが崩れていく様は、どんなものでも不思議で興味深いものだ。海に入った後の先輩の髪も、こんな感じになるのかな。  ……まあ、流石の私も先輩の前で死のうとしない。彼に通報だとか救急車とか呼ばれるのは、なんとなく私の理念に反する。先輩だけは、いつだって私のことをまともとしてくれないといけないので、そんな異常扱いされては本当に気が狂ってしまう。 「いいか、俺がお前のことわざわざ誘ってるんだ。わかるか? どうせ暇だろ」  苛立ちを抑えるように眉間をぐりぐりとした後、また私の方に目線を直して言い聞かせるように言う。なんとなく、お父さんのことを思い出す。長らく声は聞いていないけれど、なんとなく先輩と似ている気がした。高圧的で、こちらを見ているふりをしているだけの男の人の声。 「まあ、いいですけど。先輩の高級そうなコートに塩が付かないようにだけ気をつけてください」

▽ 「こんなすぐに日程決まるとか……お前暇なんだな」  彼は駅の前で感心するように言う。先輩がこんな素直に目を丸くして言葉を発するのは珍しい。それだけ、彼の周りでは予定が埋まった明るい人が多いと言うことだろう。 「通院と大学以外用事が無いもので。今回はメールの方に連絡くれてありがとうございました」 「……見てなかった、で待ち合わせすっぽかされたら、お前の事殺すかもしれないからな」  それはそれで歓迎かもしれない。見てなかった方が良かっただろうかと一瞬思うものの、流石に失礼だと思い直す。こういうところはいくらおかしくとも人間的に保っていかなければならない気がしている。  そのまま電車に乗ると、席はがらがらなので私たちは当たり前のように遠くに座る。平日の午前中にこんな行為が出来るのは、大学生の特権だ……と言う人もいるらしいが、私は中高そんなものだったのであまり特別感はない。世間の言う休日こそ外に出ない日々を送っていた。  各駅停車に揺られるリズムは嫌いじゃない。この空間だけ、時計の針が狂い続けているような気がする。私だけが狂っているわけじゃないらしい……と、思い込んでみるのも悪くはない。ぼんやり目を閉じていると、時間の流れ方がより分からなくなる。いつしか止まる際のアナウンスもよく聞こえなくなっていって、段々と私がこの時間と混ざって溶けているようだった。 「おい。降りるぞ。寝てんじゃねえよ、楽そうで良いな馬鹿は」  肩を大きく叩かれ、一気に現実へ意識が戻る。急に耳に入ってきたアナウンスは、目的地の駅を指していた。先輩は相変わらずの不満な顔で私の腕を引く。引くと言っても、だいぶ強い力だが。  ホームにはもう、潮の香りが満ちていて、本当に海に来たことを実感する。最後に海に来たのは、確か、中学二年生の時だったので全く覚えていなかった。  先輩は私の腕を振り解くように離しては、片手に一瞬マップを見て早足で歩き始める。歩幅は段々と開いていって、この人の人生が着々と進んでいったことを表しているようにも見えた。自分で誘ったとは思えないほど、私なんか最初からいないように扱われている。  歩みを進めるほど空気が冷たくなって、波の音が近くなる。夏の海とは違って、冬の海は大きく荒れている。一度にあがる波の大きさが、夏とは段違いだ。  いつしか砂浜までたどり着いて、冬の湿気をもろに食った砂の重さに足が取られる。知らぬ間に足を止めていた先輩の背中近くまで行けば、「遅い」と一言怒られて腕を引っ張られる。 「……歩いてるだけじゃ、つまらないでしょう。海なんて」 ———ばしゃん。思ったよりも大きな音と水飛沫があがって、彼の手を無理やり振り解いた腕は少しじんじんとする。  呆気に取られたような先輩の表情は、本当に初めて見るもので、楽しくて私は声を出して笑ってしまう。 「……はあ!? お前何笑ってんだよ!」  一瞬フリーズしてから、取り戻すようにして先輩は大きな声を出す。 「あはっ、あー、面白い。うん、いいですね、海。ありがとうございます。つめたい、あー、死んじゃった後もこうなのかも」  独り言のように、ぽつぽつと言葉が勝手に出てくる。冬の海は肌を突き刺すように冷たい。治りの悪い傷に塩は染みるし、先輩の大きな声で耳まで痛いし、何もかも最悪だ。けれど、私は今までで一番面白かった。声を出して笑ったのなんて、いつぶりか。 「波来る前に立て、早く! 馬鹿が……」  先輩は自分も濡れてしまうのに、急いで引き上げてくる。そんな必死にならなくても、本当に死のうとしていたら、とっくに深いところまで向かっているのに。 「先輩のあわてんぼう。私は、海の先輩らしく楽しみ方を教えてあげただけですよ」 「……うるせえよ……………お前もう黙れ……寒……」  私はまた声をあげて、軽やかに笑う。冬とはいえ、まだ昼間だったから、太陽はきらきらと水を反射して先輩を輝かせていた。 「髪の毛のセット、くずれちゃいましたね」  手を後ろにくんで、彼を覗き込むように私は笑う。綺麗に固められた髪の毛は、潮風と水飛沫でめちゃくちゃだった。 「クソ……お前本当に頭沸いてんだよ。これ以上好き勝手したら俺がお前を叩き落として殺す。黙っとけ」 「あははっ、はい。わかりました。あー面白い」  私がそう言うと、彼は怒りが爆発しかけた様子を見せては濡れてしまった自分の服に目線を落とす。お気に入りのものだったのかもしれない。 ———私と先輩は愛人でもなんでもないので、入水自殺なんてしない。玉川上水など、行かないのだ。